本橋さんと巡る田川ツアー/川崎町 編
作兵衛翁旧居跡を出て次に向かったのは、共同ポケット青木の生まれ故郷、川崎町です。
川崎町も中小の炭鉱が多くひしめいており、その出炭量は大手の三井田川鉱山と並ぶ規模。
1950年代は朝鮮特需に沸き、全国の長者番付に川崎町の炭鉱主が名を連ねるほどでした。
しかしその分、あちこちで事故も多発、多くの労働者が犠牲になっています。
1960年に起きた川崎町の豊州炭鉱の事故では67もの人が今も地底に生き埋めになったまま
で、遺体も見つけることができず、その坑口は塞がれ、現在は慰霊碑となっています。
作兵衛さんのお孫さんである緒方惠美さんも近くに住みながら知らなかった、ぜひ行ってみたいと
同行してくださいました。
そこに立つと、なんともいえない気持ちになります。みな同様の顔で線香の匂いに包まれました。
古河鉱業大峰炭鉱が作った座席数約1000を誇る映画館跡は、去年、無惨にもあっけなく
取り壊されてしまいました。
まあ、右も左も見渡す限り、空き地だらけ。ですが私にとってはそれが、ごく日常の見慣れた
故郷の風景です。
ところが、最近になって「どうもあれが儲かるらしい」と誰が始めたのか、あちこちで薮が
切り開かれるようになりました。せめて四季折々の雑草と戯れ、飼い犬と走り回っていた荒野の
遊び場が丸裸です。
実は、実家の隣に、謎の煉瓦の遺構が竹やぶに包まれて潜んでいました。
それは何らかの炭鉱の施設の一部であるのは間違いなさそうなのですが。
聞けば、私の父も子供の頃にそこを基地にして遊んでいたとか。かなりの年代ものです。
根拠のないソーラーエネルギー開発により、それらが簡単に失われてしまうのは惜しい。
幸い、何かの圧力がかかったのか、このところ工事はずっとストップしています。
きょうはテレビカメラも新聞記者も、そして石炭産業の歴史に詳しい博物館の館長さんや
学芸員たちもいらっしゃいます。
ということで、みなさんの意見をお伺いしたく、ご案内しました。
「こ、これは!なんだろうねぇ」
「すごいねえ わくわくするねえ」
「こんなのが放置されてるなんてねえ、しっかり調べればわかるでしょうに」
「専門家を呼びましょう。煉瓦の積み方などからも年代がわかる。奥にも壁が連なっている
この形状はなんだか珍しいねえ」
「ところで、ここにソーラーパネルを敷き詰めたところで、簡単に竹が下から突き破るよね」
それぞれにいろんな会話で盛り上がりました。このこともまた素晴らしい成果だと思います。
目に見えて歴史を伝えてくれるもの、目の前にあるだけで、想像力がぐっと広がります。
写真に残すのもひとつの方法だし、できたら少しぐらいは、形あるものをそのまま残して
こんな風に会話すること、とても楽しく、よい時間だと感じました。
明治期の遺構かもしれん。と石炭歴史博物館の安蘇館長(左)
さて、ここで15時をとうにすぎました。朝からあちこち引っ張り回してしまいましたが
とにかくだいたいの流れをこなしまして、最後はまた博物館へと戻りました
つづく